20120923

写真


 そうか。

 少し注意深く見れば、それが私でないことに気づくのはそれほど難しいことではない。でも、一般的に言って(特に彼女を知らない人々にとっては)それはどうにも私に見えるのだ。その写真を見る多くの人々にとって、カメラを構えて写真を撮る私は事実上その場にいなかったことになって、私ではないその人が、私としてそこに認識されて彼らの現実になる。幸せそうな私が、そこには満面の笑みで写っている。カメラの後ろにいる卑屈な私は現実から静かに身を潜めて、はじめからいなかったように事実から葬られる。

 私自身も、そのことを望む。事実であればよかった光景が、思いがけず鑑賞者の中で現実のものとなっていたことに、少し救われるような痛痒さを感じている。
 だから、彼らの認識の間違いを肯定はせずとも否定しない。むしろ可能な限り永く、勘違いをしていればいいのにと願う。そしてある日、例えば私が結婚すると言った時なんかに(その時が訪れる見込みは薄いが)その相手を目の当たりにして出し抜かれたような表情を見せてほしい。そのためになら、意味のない結婚もするかもしれない。それは、よほど世の中がつまらなくなった時だろうけれど。


 こんなことを思ったり、こうして書かずにいられなくなってしまったりするのも、あの本の影響によるものだと思う。3年前に出版された時からずっと気になっていたが、怖くて手が付けられなかった。好きな作家の新作が出た時、特に長いブランクの後などは、作家に対する落胆と失望をひどく恐れる。
1年前にやっとのことで買って50ページほど読んだままになっていたものを、この2週間で少しずつ読み進めている。少しずつ、注意深く。

作品の世界観に浸る能力を競ったら、世界中でもかなり上位に食い込めると思う。読書をすると、いつもそう思う。でも、言うまでもなく、そんな能力は何の役にも立ちやしない。むしろ現実を生きていく妨げにしかならない。だから私は余程のことがないと本を読まないようにしている。こと社会人になってからは。

つづき。

または私が出し抜かれたい。もちろんそれが一番いい。でもそれが望めないことは十分過ぎるくらいに分かっている。そこが救いのないところ。
もうそのことを考えるのはやめよう。しぶとい自分の脳の欲求を撃退するには、いくつかの朝を思い出せば事足りる。起きがけの無防備な態度は、その人の核心を最もよく表す。

そう、常に核心を見つめることを心がける。
見かけにまどわされないように。






つけたし。

蚊帳の外。その言葉を幾度となく飲み込みながら写真を撮り続けた。アルバムには、それを暗に仄めかす名前を付けた。それは、そのとき私ができる唯一の、小さな小さな訴えだった。